北方四島志発島や最終日に停泊した国後島の写真です。
iPhone4でとったものです!
今回は、Picasaウェブアルバムを使ってみました。
2011北方四島志発島自由訪問 |
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6月3日(金)から6日(月)まで今年の自由訪問事業の第1陣として歯舞群島志発島へ行ってきました。
私は元島民2世の配偶者としての参加です。元島民の高齢化等を考慮し対象者枠が拡大になり今は3世とその配偶者までが島へ行く事が出来ます。私は妻と二人で高齢のため訪問を断念するようになった義母の代わりの訪問です。最近はご家族や兄弟姉妹で一緒に参加された方々も多い様です。
今回は団員32名、医師、看護師、通訳、政府関係者等同行者11名計43名の訪問団です。
昨年までは、水晶島沖で入域の手続きをしていたそうですが、今年は、国後島古釜布まで行き、入域・出域の手続きが必要になりました。根室港から古釜布まで4時間30分その分が行程的にキツなりました。
志発島には、ロサルゴサ号が接岸できる場所がありませんので、ロサルゴサU号、更には、10人位が乗れるロサルゴサV号に乗り継き、安全な砂地から上陸します。
6月4日の一日目は、志発島西浦泊浜に上陸。ここには神社やお寺そして小学校があったそうです。上陸地点は、ロシア警備隊の基地のすぐそばで、ロシア兵が数名我々を監視する待機していました。最初に上陸したメンバーが仮設トイレを設置したり大きなブルーシートを敷き荷物置き場確保したりしているうちに全員が無事上陸。
最初に西浦浜墓地跡地へ向かい墓標の前に祭壇を設け、参加し全員でふるさと志発島に眠る御霊に哀悼の祈りを捧げました。
その後、2班に分かれ元居住地後を視察しました。
私達の班は、ロサルゴサV号で少し東側の集落跡地へ移動し周辺を散策。海岸線は浸食が進み、また、3月11日の東日本大震災による津波の影響もあったようで、波によって打ち上げられたと思われる小石が何段かの層になっていました。
足場の悪い小石が敷き詰められた海岸を数メートルほど登ると草地が広がり、奥にはこの島で一番多きな沼が見えました。まっ平らな島です。見渡せる範囲には木が一本もありません。
6月初旬でまだ枯れ草が多く緑は少なく、草の背丈も低かったので大きな沼の水辺まで歩くことができました。途中、至る所に馬ふんがころがっていましたが馬はどこにもいませんでした。
沼へ向かう途中、錆びついたヨウド釜やコンクリートの塊があり、微かにですが66年前の生活の様子を感じました。
枯れ草の中に鮮やかな水仙の花を見つけました。志発島では家の前に水仙を植えていたそうです。結団式の時にいただいた地図をみながらこの水仙の花の付近に住んでいた方を確認。地図には、道路も描かれていますが、はっきりと道路の場所を特定することはできませんでした。
その後、海岸に戻り昼食をとりました。船の中で配布されたパンとカロリーメイトそして朝食の残りで女性団員がにぎったおにぎり。やっぱりおにぎりが一番でした。
昼食の後、少し時間がありましたので、妻と二人でトマリ岬側に向かい海岸線を歩きました。
志発島は山のないへいたんな島ですがその分海岸線がどこまでも見える素晴らしいロケーションが広がります。二人で歩いた方向には勇留島の島影も見えました。今は、何もない島ですが綺麗な所です。妻は、波に洗われ角が取れた綺麗な色丹石やガラスなどを集めながら「島が戻り自由に行き来できるようになったら、皆で、別荘を建てたい」と言いました。66年間全く手が掛けられていない志発島を含め歯舞群島の島々には様々な可能性があること感じたところです。
波が少し高くなってきましたので、予定の時間を早めこの日の散策は終了しました。
2日目は、ガスがかかり波も高く先発隊が上陸可能か調査に向かいました。
その結果、上陸地点が変更となり、希望者を募り島に向かうことになりました。ロサルゴサ号が上陸地点近くに移動すると、波は穏やかになりましたがガス(海霧)が濃く陸地は全く見えません。
上陸予定者がロサルゴサUに乗り移り陸地に近づき、更に、ロサルゴサVに7名ずつ順番に乗移り上陸。団員を下したロサルゴサVは濃いガスでロサルゴサUを見つけられず、無線や霧笛で誘導しながら戻ってくるという厳しい条件の中、一時間ほどかかり希望者全員が無事上陸。
なんと全員の上陸と同時にガスが晴れ、絶好の散策日和に。ラッキーでした。晴れてみるとロサルゴサUも陸地からそんなに離れた距離ではかなったことが判り、改めて海霧は恐ろしいと感じました。
昨日上陸した地点にあった基地から歩いて来るという監視のロシア兵が少し遅れて到着。
事務局と短い打ち合わせの後、ロシア兵と一緒に散策予定地を目指し出発。上陸地点が変わり、4キロほど移動距離が伸びましたので、高齢の元島民の体力が心配でしたが、休憩を取りながら、それぞれマイペースで目的地を目指しました。
途中、カニカゴや漁業用の資材と思われる漂流物が目立ちました。また、過去の津波や浸食の影響で完全にせき止められてしまった川口跡もあり、過ってサケマスが遡上していた島であったことを感じる風景でした。
私も義母たち日本人が暮らしていた島であったという思いを一歩一歩かみしめ、今日の目的地である義母の家のあった地点に向かいました。
小一時間ほど歩き、海岸線から草地、ロシア人が建てたと思われるレンガ造りの廃墟のそば、谷地ぼうずが幾つもある谷地を通り抜け義母が生活していた相泊の居宅跡に到着。
66年という時が過ぎ、道路も建物も全てが無くなり、草が生い茂り、正確な位置はわかりませんが、過去にこの地を義母と一緒に訪れたた妻の記憶を基に場所を確認。GPS機能付きのカメラで記念写真やまわりの景色を撮り、他の団員が待つ、日魯缶詰工場跡地に向かい、そこで昼食をとりました。
工場跡地のある海岸線には大量のホタテの貝殻が波で打ち上げられていました。団員の中には生きたホタテ貝を見つけた者もいました。
山がまったくない平らな島。食事をとった工場跡地の海岸からは、昨日訪れた西浦泊のロシア警備隊の宿舎や電波塔が小さくかすんで見えました。ロシア兵は何時間かけてここまで来たのか?この後何時間かけて戻るのか?などとどうでもいいことを考えてしまうほど志発島は、私が想像していたイメージよりはるかに大きな島でした。
60平方キロメートル、374世帯、2,249名が住んでいた美しい大きな島、義母のふるさとの島である事を感じながら上陸した地点を目指し帰路につきました。
全ての予定を終え、船は志発島をあとにし出域手続きのため国後島古釜布沖を目指し出航。朝の波やガスが嘘の様に波も穏やか快晴の中4時間程で古釜布沖に到着。
古釜布沖に到着後解団式を兼ねた夕食交流会がロサルゴサ号の食堂で行われました。
自由訪問はロシア人との交流という場面はありませんが、同じ島に暮らした元島民やその家族の団体行動となりますので、初めにも書きましたが、本当に和気あいあいのアットホームな雰囲気が心地よく、誰からともなく笑顔で声を掛け合うこの関係、この時間が素晴らしいと思いました。
高齢のため望郷の思いがあっても、島へ渡ることをあきらめた元島民も沢山います。志発島で散策中に団長さんが「Kさんがいたらこの辺のことは全部わかるのにな...」という一言にも考えさせられました。自由訪問事業には3世とその配偶者まで参加できるようになったわけですから、2世、3世も島に渡り一緒に行き少しでも昔の様子を見聞し、元島民の思いを受け継ぎいでいかなければならものと思います。
国後島古釜布の街並みは夕日が当たっていたせいか凄く綺麗でした。私は、まだ国後島は訪問していませんが、過去に何度かビザなし訪問の入出域手続きのため古釜布沖に来たことがありますが、当時と比べてみますと街並みがかなりカラフルになってきた様に感じました。夜遅くまで街頭がつき、住宅からも明かりがもれ夜景もキレイでした。
私達が停泊していたのは6月5日(日)の夜でしたが、この日、島では南クリル行政府65周年の祝事が行われていたらしく、にぎやかな音楽が聞こえ、そして、花火が打ち上げられました。「島はロシアのもの」と言わんばかりの行動、楽しい旅行気分も一転、古釜布での入域手続、入域手続の際の点呼の様な確認方法、島への食べ物の持ち込みの規制、手続きのためにやってきたロシア兵の真新しい制服、綺麗になったと感じた街並み等々全てのことが、実行支配の姿勢を強める昨今のロシアの行動に思え、志発島の濃い海霧のように四島の返還は四方八方全てが視界ゼロとなり身動きが取れない状況と感じたところです。